ノイズミュージック、コテンポラリー 実験音楽に捧ぐ




MUSIC for GOOD MOURNING

音楽は;
例えば、アフリカの大地に祈りを捧げているのではない。
ヒンズー川に落ちる夕日を見ながら、神へ語らいかけているわけではない。
ジャマイカのぼろスタジオで、キャデラック・リムジンと冷たいシャンパンを夢見ているわけではない。
ユーゴスラビアで死んでしまった同胞を悼んでいるわけではない。
ロサンジェルスのスタジオでエミー賞の受賞中継を見ているわけでもない。
そうはいえ、音楽理論や、歴史について教鞭を取ることでもない。
音楽は、愛や夢や希望や悲劇についてかたらない。殆どの場合、それらへの共感を求めることをしない。

音楽にとって有用性を持つあらゆる要素を剥奪してみようか。
残った物は、絶対音楽だけだろうか?しかし、「絶対」については、注意しなければならない。
すでにそれが宗教じみた美意識の操作の果てにあることなど皆、熟知しすぎている。

ところで、音楽はどこで発生するのか?
どこで生成されるとき必然性と、存在の効力を持ちうる事ができるのか?
コンピュターの中の微弱な電位差によってなのか?
転用されたエレクトニクス技術による電圧差のなかにか?
鼓膜上の振動を音ではなく、音楽だと差別化するときの判断は、美的判断よりも社会上の通念によって行われる。
インプットとアウトプットの双方に技術と社会と教育、経済など様々なインフラストラクチャーが関与してくる。

社会にも経済にも産業にも文化にも何ら貢献することのない生産物が、消費されることなく生産され仮初めのパッケージを得て流通する。
でも、どうやら、社会というのは、そこに判断基準が初めからあるわけではなく、生産物と意思表明によって構成されているようで、むしろそのの恐ろしい点は、無目的であったものでさえ、そこに生産しようとする意志が働いていれば、社会の構成物としてのみ込み目的と存在理由を無理矢理割り当てる怖さにある。
しかし、消費に結びつかない生産が、音楽という概念を改訂していく可能性を模索できないだろうか?
1951年ヴァレンタイン・デイヴィス監督の映画「ベニーグッドマン物語」のラストシーンを思い出す。
カーネギーホールで始めてジャズを聞くことになったモーツアルト好きの聴衆の老紳士達がジン・クルーパーの笑顔を得るために、ジャズを理解しようと滑稽な努力をする。
これが、いつも、変わらない来るべき、新しい音楽の出現の姿の映像かも知れない。
それは、今も信じられている。
しかし、そうではなく、歴史ではなく音楽を、どうやって?開発する?独立させる?

余談だけれども「地球がなぜ月を引っ張らなくてはいけないか?」という問題と同程度に。(FURUDATE)



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